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ヤマトタケルは、倭姫命から草薙剣を授かり、東征に向かいます。草薙剣の本来の名称は、天叢雲(あめのむらくも)剣でした。この名は尾張氏の始祖であるホアカリの孫、アメノムラクモから来たものと思われます。天叢雲剣は、尾張国造家に伝承されている、尾張国の守り剣で、元来天皇家とは縁もゆかりもない代物です。そのヤマトタケルの生涯を守りぬいた剣として草薙剣がありますが、これはおおもとをたどると素盞鳴尊が八岐大蛇の体から取り出したものです。草薙剣は、この後、宮簀媛のいる尾張の熱田神宮に祀られましたが、天智7年(668年)僧道行によって盗まれ、その後は宮中に置かれていました。ところが、朱鳥元年(686年)に天武天皇の病気が草薙剣の祟りとわかり、剣は再度熱田神宮に返され、祭られることになりました。熱田神宮には、酔笑人神事といってこのときの剣の帰還をひそかに喜ぶ神事があり、草薙剣が本来熱田神宮の神器であったことを伺わせます。おそらく、神器となった草薙剣の祭祀を巡って、朝廷と熱田神宮に軋轢があり、最終的に熱田神宮での祭祀が決まったものの、その合理的な説明のために、伊勢神宮からヤマトタケルに渡り、再度、尾張に剣が戻ったことになったのでしょう。
倭姫命は、ヤマトタケルに伊勢神宮にあった神剣天叢雲剣(草薙剣)と袋とを与え、「困ったときにはこれを開けなさい」と言います。日本書紀では当初、兄の大碓命が東征の将軍に選ばれましたが、彼は怖気づいて逃げてしまい、かわりにヤマトタケルが名乗りを挙げたとなっています。書紀では、先の小碓命が大碓命をちぎって捨てるという話はありません。古事記の方は、物語風です。天皇はヤ |
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マトタケルに最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、吉備氏や大伴氏をつけて出発させます。堂々としています。書記には、ヤマトタケルが倭姫命に嘆く話もありません。天皇の期待を一身に受けて、出発するヤマトタケルは、栄光に満ちています。東北征定と鉄の生産地を押さえることも役目の一つであったと思われます。当時、鉄は貴重であったにもかかわらず、朝鮮からの輸入に頼らざるを得ませんでした。出雲で銅剣、銅矛が出たことでも分るように、まだ出雲においても鉄の生産は少なかったように思われます。
ヤマトタケルを総大将とする東国遠征軍は、吉備、大伴、久米の各武将を率いて、大和から伊勢を経て尾張へ入っていきます。伊勢湾から押し寄せた大和軍は、吉備武彦を使者に立て、尾張氏を降伏させたのでしょう。当時の吉備国は大和政権に匹敵する勢力を有していました。吉備の造山古墳は、仁徳陵、応神陵、履中陵についで、全国でも四番目に大きな前方後円墳です。吉備氏が使者としてやって来たことは、西日本が大和政権に押えられたことを、尾張氏に悟らせるには充分でした。尾張氏は、屈辱的とも言える全面的な協力をせざるを得ませんでした。尾張家の世継ぎである武将をこの東征に従わせ、宝剣「天叢雲剣」をもヤマトタケルに献じ、さらには、尾張家の娘(宮簀媛)まで輿入れさせることになったのです。ヤマトタケルは、宮簀媛と東国平定の後に結婚することを約束して東国へ赴きます。(以後、次刊へ) |
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